先週末、東北の宮城へ行った。 用事が一件あり(自分のじゃないけど)ついでに登山などを。 東京は暑さがぶりかえしてきたけど東北はそうでもないそうなので。 船形山という標高1500メートルのそう大きくはない山へ。 (200名山の一つ) 登っておりて3時間ほど、まあまあ気軽に臨んだわけ。 それがまあ。 結果から言えば登山口が見つからず、登れなかった。(笑) いやいや、こんな事は初めてだわ。 関東とか近場の山では、低山だとしばしば登山口が見つけにくい時もありますが。 案内板を見逃したりして。 北アルプスとかの高山ではまずないんだけど…。笑。 ついでに低山では道に迷うこともめずらしくない… 登山道の整備が足りなかったり案内版や赤テープがなかったりするケースも。 それにあまり詳しい地図が手に入らない時もあるの。 ついでに登山口にトイレがないことも…笑。 で、今回の船形山は。 地図では登山口はキャンプ場で、駐車場もはっきり示されているんだけどそこへ行くまでの林道がよくわからなかった。 ナビの案内通りに行ったんだけど途中から「一般車両立ち入り禁止」と出ている。 「あれ?」と思ったんだけど方向は間違っていないみたいだしゲートみたいなものもないので取りあえず進んだわけ。 それが舗装されてない、すれ違いのできない一車線で、そうとうのダートコースなのよ。 一応四駆なので(私が運転じゃないけど)走るには走れる…。 でも登山口のあるそのキャンプ場までは1時間くらいかかりそうだし朝までけっこう雨降ってて、土砂崩れとかちょっと怖くて…。 20〜30台くらい停められるりっぱな駐車場のあるキャンプ場なのにこの道でいいのかな?と不安になってきた。 道が違うのでは?と。 それにほとんど登山者もいなさそうだし… というか誰もいなかった。 案内板も全然なくなっていたので引き返すことにしたのよ。 山梨とか埼玉秩父とかと違って東北だからさ… スケールがちょっと大きいし…。 それに道を聞こうにもだーれもいない…動いている人間が。 それも不安だ…。 まあ早朝の林道なんてだいたい誰もいないのよね。 たまに犬の散歩している人がいるかな…。 (これが土日の百名山とかならたくさん登山者がいるんだけど…) 偶然林業関係で山の整備に来ていた人がいたので登山口を知らないか?と尋ねたら、どこそこまで戻った方がいい、とていねいに教えてくれた。 今引き返した道でも多分行けるけど悪路だし相当時間かかる、と。 ありゃりゃ…。 そのうちトイレにも行きたくなっちゃったので結局もどった。 途中で小学校があったのでそこで借りることに。 でも休みの日なので校舎は鍵がかかっていて誰もいない… 幸い体育館の方で親子バスケをやってたのでそれに紛れてトイレを拝借、ほっ。 あ、小学生のミニバスケ?夏練習かしらね。 「ナイッシュ!リバリバ!」ちびっこのかわいい掛け声とボールを突く音、バスケットシューズのキュッキュッというピボットの音が。 懐かしい部活の音… それにしても送り迎えの父兄の若いこと…。 9時過ぎて朝まで降っていた雨がやみ、空が明るくなり時折雲間から太陽も顔を出す… 猛暑から解放されていい感じの登山日和になってきたのに…。 観光案内に電話して、なんとか情報を仕入れたところ、登山口のあるそのキャンプ場までは反対側の色麻町(しかままち)から入った方がいい、と。 それでも1時間以上かかりそう、無事着いたとしても10時過ぎになってしまう、いくら3時間程度の山でもスタート時間が少し遅い… よく知った山ならともかく…。 というわけで登山はあきらめた。 天気がよくなったので少々もったいなかった… 多分さわやかなよい山行ができそうだったのに…。 東京へ戻り、後日色麻町の観光局に尋ねると。 そこからでも普通に1時間はかかるんですって。 舗装されてない林道で。 へたすると今回途中まで走った林道よりもっと悪路、かもしれない、と。 あらあら…。 頂上どころか登山口にすらたどりつけない… 東北恐るべし。 写真も見ると、けっこう美しい好きな感じの稜線、ぜひ登ってみたかったんだけど。 多分あの長い林道が舗装されることはないだろうなあ… ということは多分登る機会はたぶんない…。 「残念です〜」と伝えたら応対してくれた観光案内の女性の方も残念そうだった…。 しかし、毎度思う事だけど日本って狭いようでいて広いなあと感じるよ、つくづく。 だって行けども行けどもずーっと山だもの。 北海道や東北は桁違い、埼玉や山梨でもそうだもの。 車でもそうだもの、歩けと言われたら泣くな…。 (よくこんな山の中まで道路作ったようなあ、と感心したり。 もっとも、大昔から道はあったんだよね、何とか街道とか峠越えとか。 それを戦後GHQが国道何号、と1から順に事務的な番号を割り振ったそうな。) うんざりするほど山、行っても行っても緑の山。 緑、緑。国土の7割は緑色。 山があるから沢もあり、つまり水がある。 これっていいことだよね。
PS. 幌尻岳で遭難事故あり。3人の方が亡くなられた。 糠平川を遡上、四ノ沢付近。 その先にある幌尻山荘へ向かうパーティーだったのかな…。 あ、もう10年前になるのか、私も行ったなあ、幌尻岳。 同じルートだから、私もその四ノ沢を渡渉したはず。 9月は夏よりは水量多くないはずだけど、この日は腰まであった、と。 私が登った時はひざくらいまでだった… 充分装備していても慣れてない竿を使っての渡渉はちょっと緊張した。 たまたま一緒に登ることになった山小屋管理人のおじさんがレクチャーして くれなかったら…。 気になるのが、遭難した方3人、ザイルで身体を繋いでいたそうな。 繋いでない方がよかったのでは? …どうなんだろうか? 遭難事故のニュースはあってもその後のことはほとんど知らされない。 ぜひ知りたいところですが。
夏子
今週は少し暑さがもどってきたけど(もどってくるなー)夏なのに雨の多いうっとうしい天気が続きますね。 猛暑はごめんだけどちょっと夏っぽくない… 夏休みの子供はつまらなかろう…。 花火も海水浴も中止になっちゃうし。 ま、大人にはあんまり関係ないけど。 どんなに暑くても、いや暑いからこそ外に出ただけで、夏というだけで何かワクワクしてたのは何歳までだっただろうか? …記憶をたどると〜20代くらいまではそうだったかな。 もう週刊連載をしていたからどこに遊びに行くわけでもなかったのに。 仕事中エアコンで冷えた身体、外に出てもあーっと熱気を浴びるのが昔は好きだった… 今じゃ考えられないんだけど。苦笑。 当時はこれほどには暑くはなかったよ… せいぜい暑くて32度くらい。 それがまあ。 怖い話はどうだろう? 肝試しとかは今どきはやらないのかな。 百物語とか…笑。 好きだったなー。 お金とかかけなくても充分楽しめる… むしろカネをかければかけるほど怖くなくなる…は私の説。 ほら、カネをかけるとなんか「人工的」になっていくでしょ。 原始的、田舎とか自然とかの方が怖い…ひひひ。 遊園地のお化け屋敷も、カートに乗って行くものより歩いて行く方が怖い…楽しい…。 そういえば「心霊写真」とかはめっきり扱われなくなったわね。 今思えば、当時の心霊写真はおそらくほとんどがニセモノだったと思うけど、当時は疑いもせず正直に怖がっていたんだから、ある意味幸せだったか…笑。 あれも大好きだった…。 昼間から雨模様のうっとうしい日が続くと、楳図かずおの「雨女」って短編思い出す。 短編だし楳図作品の中では地味な方ですが、私は結構好きだった。 怖かったし。 雨が降ると「雨女」がいつのまにかやってきて、主人公の女の子(10才くらい)をさらいにくる、という内容。 どこが怖いかっていうと、その雨女はいつも笑ってるの。 「ほほほほほほほほ」って。 笑いながら家に忍び込んで、いきなり立っていて、そして追いかけてくる… こわあい逃げろ!逃げろ!でもしょせん狭い室内、後ろから手が伸びて…この恐怖! へび女もこのパターンね。 きゃあああ。 恨めしそうな顔したユウレイも怖いけど、笑っているユウレイはもっと怖くないですか? しかもあの楳図先生の造形ですよ… 怖いったらありゃしない。 もっとも、この雨女はユウレイではなく、生身の女ですが。 で、その女の子、何度か襲われ、その都度何とか助かり、でもいつも空を見上げて雲がかかり始めると 「雨が降ってきた!また雨女がくる!」って心底怖がっているの。 それなのにお母さんに話しても信用してくれない。 なんでお母さんってこうなの! …ある時よりによって! お留守番をしなきゃいけなくなって、 よりによって!! 雨が降ってくる… その恐怖たるや。 鍵を閉めたのにいつの間にかソレが家に入ってくる恐怖! 来る! 来る!って怖がって、そしてほんとに来たー! 隠れたりして逃げるんだえどこの日はとうとう見つかってしまった! たしかソファの下か何かに隠れて、何とか助かりそうかな?ってほっとした次の瞬間 バッ!!とソファの下を覗かれ、見つかってしまった時の怖さ! 笑ってる! 楳図先生のあの絵で… キャー。 怖い、怖い、と幼かった私も嬉しそうに怖がったものだ… いや、今でも雨の日とかなんとなく思い出して怖いぞ…。 とうとう雨女につかまって、さらわれちゃった女の子。 どうやら雨女の家に連れていかれて、笑いながら抱きしめられているところを助けられるのだけど…。 おほほほほほほほほ…。 何でも、自分の子供を亡くしてから少しおかしくなっちゃった、ある意味可哀相な「母親」だった、と。 (ちなみに、楳図作品は「母親」が恐怖の根源、 というパターンが多いですね。 「へび少女」しかり、「洗礼」しかり。 「のろいの館」も、タマミちゃんも充分怖いけど彼女を可愛がる母親もある 意味すごく怖かった。 なぜ、斯様に「母親」をグロテスクに扱うのか… 存在自体がグロいのか… う〜む、深い…さすが巨匠。) つまりユウレイとかではなくちゃんと理由のある生身の人間なのね。 そのことがホッとするところか怖いところか…。 子供の頃はそのオチを読んで、怖さがなくなったけれど、大人になってからはやはりユウレイとかより生身の人間の方が怖いかな。 だってユウレイとかいないしー笑。 かつて大好きだった心霊写真はほぼ作り物だし。笑。 子供の頃の怪談ってムードを怖がって…楽しんでいたのよね。 こっくりさん、とか。 あれもカネはかからない… 10円玉があれば♪ ああ、こうして夏の風物詩をどんどん失くしていく…。 残るはぶざまで見苦しい人間のさまばかり。 あ、でも私はよく「金縛り」には遭ったよ。 あれは心霊現象ではなくちゃんと説明できるただの身体反応らしいけど。 金縛りじゃなくても、たまに「怖い夢」見る。 よくあるパターンでは、夢の中で誰かが鍵をあけて入ってくる… ガチャリとノブをまわす音がして…で、夢の中で私は身体がよく動かず、何とか歩いて行って、そいつ(たいてい知らない男の人)に入られないようにドアを抑える… そこでハッと夢が醒め、「あ、なんだ、夢だったのか…」とホッとすると また誰かがドアをガチャリと回し…と、2,3回繰り返す… どこからが夢なのか境界がはっきりしない…っていうのをしばしば見るわ。 昔、まだ週刊連載が忙しかった頃、実家の母がお弁当とかおかずを持ってよく来てくれた。 私はまだ寝ているので鍵を開けて勝手に入って、時にそのまま帰っていったり。 今はもう忙しくないし母もトシなので来ることはなくなったが、時々明け方の夢うつつで、鍵をさし、ドアを開ける音を聞く事がある。 「あれ?おっかさん?…のわけないか… おっかさんはもう二度と来る事はないのに…」 (いや、まだ生きてくれているけどもうトシだからね) あ、空耳だったのか、と。 1年か2年に一度くらいこのパターンの夢を見る… 怖くはないけどなんか寂しい。 いつかお母さんがいなくなって、本当にドアを開ける事は永遠になくなる日が来る…。 それでも「その音」の夢見るだろうか。 聞きたいような、聞きたくないような。 いや、聞きたいかな、やっぱり。 聞いて、母親を思い出してせつなくなりたい。 まだ元気だよ!笑。 怖い話や怖い夢、オカルトは信じていないけどあるとけっこう楽しいね。 ほんとうに「怖いモノ」は置いといて。
8月15日か… 終戦記念日だ。 テレビで戦争関係のドキュメントをよく見る。 こういう言い方はナンなんだけどどれも秀作。 衝撃的で生々しい証言は胸に迫ってきて苦しいくらい、凄い内容のものばかりだ。 (でも「感動」とか「泣ける」ってカテゴリーにしちゃいけないね) 昔からこのジャンルの番組は好きでよく見ていた。 でもバブル期あたりは少なくなっていたような記憶が。 それがここ数年多くなった。 どうも戦後70年以上経って、今まで口を閉ざしてきた方々が語り始めたそうだ。 自分の体験を、死ぬ前に語っておきたい、語っておくべきだ、と。 そうしないとまた戦争が起こりそうな感じで…使命感に押されて、と。 私も実際体験した人の話は貴重だし聞いておくべきだと思っている。 しかしね…。 先日もアメリカ空軍が初めて公開した東京大空襲の詳細とか、日本軍の記録とか、いろいろ戦争当事者側の証言番組をいくつか見たけど、これがまあ腹が立つというかあきれるというか。 (実に興味深くもあるけど…) よくこんなことをやってくれたな。 よくもこんなことを考え付いたものだ。 なんでも、アメリカ空軍の事情としては、陸軍海軍に対して「一旗あげて自分たちの存在を示したかった」そうな。 第二次世界大戦で、欧州戦線ではうまくいかなかったから、何とか太平洋戦争で名誉を挽回したかったそうな! 「よし、東京を焼き払って我らの手柄にするんだ!」 彼らは当たり前だけど職業軍人だからね。 戦争が人生だからね。 興奮しただろうね。 さぞかしアドレナリン分泌しただろう。 彼らは楽しかっただろうか…。 …と思いたくなるような内容だったわ。 最初は日本の軍需関連施設をピンポイントで狙うはずが、高性能のレーダーを搭載したB29でもなかなかうまくいかなかったんですって。 で、成果が出せなくて相変わらず空軍海軍から馬鹿にされて、路線変更して「東京全部焼き払う」ことにしたんですって。 「的」がでかいからはずれないし。(!) 非戦闘員、女も子供も皆殺しにすれば怖くなって日本人は戦争を続ける気がなくなるだろう、と。 よし、我らがアメリカ空軍の誇りにかけて一か八か、勇気を出して戦おう! 「勇気」という言葉をそこで使うなよ…。 さらにあきれるのは、あまりに東京を焼き払っちゃったものだから(一晩で!)さすがに「いかがなものか」という批判が内外から出そうになって来た。 すると、「じゃ焼夷弾を使わないですむように原爆を使おう」ですって! ちなみにその指揮官はその後、ベトナム戦争でも大活躍したそうな。 絶句。 もちろん日本軍の証言も負けちゃいない。 この場合、戦争を指揮した上の方、将校ね。 やっぱり戦局が悪くなっていったので、なんとか好転させたかったんですって。 でもなかなかよくならなくて、しまいには精神論に頼って…。 下っ端の方はたまらない…。 (案の定、無残に命を落としたのは下級兵ばかり…いつの世も) 両方に共通してるのは、「反省はしない」ってところ。 戦後は自己弁護に終始し、自分に責任はない、だって戦争だったんだから。 そう思うんでしたら「原爆」関連の資料も堂々と自分たちの判断は正しかった、と公開したらどうですか…。 そういえば「アイヒマンショー」という映画でも被告のナチの高官アイヒマンは徹底して「自分に責任はない」とか「皆殺しにしろ、と発案はしたけど実際やったのは現場の将軍、自分はベルリンに居たし」って言っていた。 映画は実際の裁判の音声と映像をはさんでいる。 その監督さんは徹底して被告のアイヒマンにズームアップしている。 しかし、収容所の映像を見せられてもアイヒマンはほとんど表情を変えなかったようだ。 監督さんは「アイヒマンも人間だ、どこかで表情に出るはず」と目論んだのだけど…。 もっとも、感情を殺しでもしないと精神が耐えられないかもね。 実際のアイヒマン裁判のホロコースト生存者の証言で、他の証言者のカタルシスたるや。 なんでも、当時はホロコーストの証言なんて信じてもらえなかったんですって。 そんなことほんとにあったの?って、大して聞いてもらえなかったそうな。 それもびっくり。 これは後に「アイヒマン実験」として「人はどれだけ命令に従えるか」の考察に役だったようです。 実験結果としては、人は状況によりかなりの確率で「言われたら従う、その結果については命令に従っただけなので責任はない」となるそうな。 うへえ。 もっとも、自分もどれだけ信念を貫けるか、は自信はまったくありませんが…。 むしろすぐ「転んじゃう」のでは… ひいい。 それでも、戦後信念を貫いた人もいる、拭いがたい傷を抱えて生き抜き、(生きられなかった人の分まで、と)そして貴重な証言を残そう、という人もいる。 そういうのを「勇気」というべきではないか…。 (とくに、指揮を執った将校のある意味残念な証言テープを提供してくれたお孫さん、とか…) 実際の戦争証言の凄まじい重さに比べたら、たまたま見た「アイ・イン・ザ・スカイ」という戦争映画の軽い事よ…。 「アイ〜」はヘレン・ミレン主演、のイスラムテロに対する征伐(?)ストーリーなんですがね。 何でも、ドローンを使ってテロリストを殺す、と。 しかし、首尾よくテロリストのリーダーが隠れている民家を見つけるのだけれどミサイルを撃とうとしたらその民家の前で少女がパンを売っていて、彼女も巻き添えにしちゃう、さあ大変、って葛藤する指揮官と実際ミサイルのスイッチを押す軍人、命令を出す英国政府、etc…。 でも躊躇する政府高官は「もし罪のない少女を殺してしまったら世界から避難されちゃう」ってところを心配するわけね。 ネット時代ですからね…。 い・ま・さ・ら!! 何とかあの手この手でパン売りの少女をその場から立ち去らせようと奮闘するも… 少女の運命やいかに…。 女性兵士や実際スイッチを押す若い軍人なんか目に涙を浮かべるんだけど、正直シラケちゃった。 何をいまさら。 もっとも、「軍隊」というのは個人がいちいち自分の感情や判断を表にだしたら動けない。 ある意味「ロボット」になることを要求される。 今回の日本人将校氏の初出しの証言テープでそのことを改めて思い知らされ、 「やっぱり、自分たちは、ただの………これが戦争の正体ですよ!……」と 打ちのめされてうめくように涙した男性(ああ、もう90才代…)の姿が忘れられない。…… いやだなあ、戦争。 でもやりたがる人がいるんだよね。 儲かるらしいのよ。 くたばれ! …とほほ。
PS. 編み物教室の先生は中国から引揚者。 先生曰く、 「日本兵はねえ、嫌われてたわよ、だっていばっていたから」 以前に知り合いだった中国史の先生曰く、 「テレビで見る北朝鮮の人達のコト、笑っちゃいけないよ、戦前の日本も 同じだったよ」 直で聴いた貴重な生の証言でした。 おまけとして、うちの母曰く 「空襲があると授業がなくなるのでうれしかった♪」 おっかさん!!!
久しぶりでツタヤでDVDを借りて映画を見る。 アカデミー賞で評価の高かった「ララランド」とこれも話題作の「沈黙〜サイレンス」の2本。 どっちも見たかったのでレンタルを待っていた作品。 (いやもう、映画館で映画見る忍耐が…苦笑) 「ラララ…」は…ちょっと苦手な感じのミュージカル風でやっぱり苦手な展開だった。 しかも主演俳優の二人の顔が苦手なタイプ。 さらに用事をしながら日本語吹き替えで「ながら…」ではね。 ストーリーも「それぞれの夢を追う若い恋人同士、でも若さゆえか?情熱がすれ違って…」なんてこれもまた苦手な展開。 好き合ってるのになんでけんかすんのよ…ってイラッとした。笑。 男は自分勝手だし女はヒステリーだし。 なんでアメリカ人って「夢追ってネバーギブアップ!」なんでしょうかね。 見てるだけで疲れちゃう。 トホホ。 私に問題がありましょうが結局ほとんど楽しめなかった。 でも音楽はよかったと思う。 女優さん以外は歌が上手いし。 あら。 「沈黙〜」は…。 わかっていたけどひたすら重苦しい展開だった。 だってねえ、内容がいわゆる「隠れキリシタンへの迫害」さらに「転びバテレン」の悲運な顛末、ですからね… さらに遠藤周作原作で監督はスコセッシだから…。 想像通りのハードな、見てるだけでこっちも疲れてしまうような…。 でもつまらないわけではまったくなく、かなりおもしろかったでした。 日本人キャストは知ってる俳優さんばかりだし、特に窪塚洋介が熱演、というので期待してたし。 それに主演のアンドリュー・ガーフィールドは、あら「ソーシャルネットワーク」のサヴェリン君ではありませんか、マーク・ザッカーバーグの親友役の。 どこかで見た顔だと思ったわ。 大好きな映画だし。 彼がまたよかったわ。 物語の9割以上は「苦悩」の表情なんですがそれがまたはまっていて。 マッチョじゃないから(むしろガリガリ)悩める若き神父役に違和感なく。 もちろん窪塚洋介もよかった。 彼もガリガリ君。 しかし内容はね…。 キリスト教の司祭である主人公が信仰を捨てる、捨てさせられる、「棄教」が主軸なんでまあ拷問に継ぐ拷問の連続… それはもううんざりするほど。 拷問もいやなんだけどそれでも信仰を捨てない人々の存在に… 正直感情移入できようもなかった。 なんでそこまでがんばれるの!! 死をもいとわず… ひゃあああ。 だから精神的肉体的に苦悩にまったく耐えられずにすぐ踏み絵踏んじゃう窪塚演じる「キチジロー」に一番シンパシーを感じた有様。 そりゃそうでしょ。 水責めやら火責めやら逆さ吊りの拷問なんて、聞いただけでも私なら1秒で転びますわ。 …その前に私は「信仰」もないんですけどね。苦笑。 失うものがないと強いか… そういう問題ではない。 棄教を迫るお上の残酷さがそりゃもううんざりするほどに。 よくもまあ人間が人間にこんな仕打ちができたなあ。 もっとも、お上に逆らえばこっちも危ないからそうせざるを得なかったのでしょうが…。 隠れキリシタンとか踏み絵とかは日本史でならったっけな。 でもこんなに残酷な状況とは…。 さらに迫害に耐えれば耐えるほど信仰心は強くなる、それは死さえ恐れず…。 「殉教」こそ本望…となってはとてもついていけない。 ほとんどカルト? うわ。 権力者はその信仰の強さを恐れたわけだわね。 たしかに「理解できない」ってことは「恐怖」なんだろうね。 そのうちに「拷問」をすればするほど信仰は強くなってしまう、それなら「棄教」の方が、転ばせる方が隠れ信者に対する効果は大きいと、「卑怯者」「裏切者」の烙印の方がはるかに目的にかなっているだろう、ともくろむお上… 苦しみ続ける司祭、信者たち…。 卑怯者のそしりを背負って生きるくらいなら神に殉じた方がまし、むしろそれこそが望み… ああ、うんざり… それでも物語は続く… でも引き込まれている… ということはおもしろいと言う事だ…。 サヴェリン君の運命やいかに…。 しかし、あの手この手、硬軟使い分けて棄教を迫る奉行側の言う事を聞いていると、なんか説得力を感じるのよね。 そっちの言い分に。 だって私だってキリスト教よりは「仏教」や「神道」の方がしっくりくるもの。 キリスト様という偶像崇拝よりはもっと自然の中の、「お天道様」とか「海の神様」「山の神様」八百万の神様の方が信じられるわ。 捨てなきゃ殺すぞ、って言われたらすぐ捨てますが…苦笑。 確かに日本人にはねえ…。 それにしてもね、棄教しなければ人質を殺すぞ、ではまるでイスラム国、ただのテロリストのやり方ではありませんか。 そのやり口はうんざりです。 国家のすることとはとても…。 もっとも、こっちが本家かもしれませんが。 そんなに信仰が怖いですかね… 怖いんだろうね、イデオロギーの違いを恐れるのは今でも同じなんでしょうね。 その中で唯一感情移入できるキャラの「キチジロー」は光っていた。 一番人間的というか。 解説によると遠藤周作自身が自分を投影したとのこと。 たしかにほとんどの人間はキチジロー的ですわね。 もちろん私も。 物語中キチジローが何度も裏切っちゃあサベリン君を追いかけて「司祭様〜許してください〜、懺悔させてください〜」と叫ぶ様はおもしろかった。 その度、「またかよ…」みたいな表情を浮かべながらも司祭ゆえ、許して…。 さらに、棄教させられて日本名を与えられ、仕事を与えられ、でも死ぬまで監視させられる彼の横に、いつまでもそのキチジローが居て…。 で、相変わらず「罪を犯しました、許してください」と懺悔するキチジローに「もうその資格はないから」とほとんど無表情のサベリン君… そこもなんとなくおかしくて… 哀しかったけど。 それにしても「司祭」に信仰を捨てさせるなんてなんと残酷な事だろう。 アイデンティティを奪う、魂の抹殺ではないですか。 なんとなく「拉致被害者」と重なってしまいました。 あの人達も、こんな感じで「日本人であること」を捨てさせられたのか… そうしなければ… なんてそんな事を考えちゃってまた重かったのでした。 ああ…。
PS. ところで子供の頃「ギロチン」がかなり人道的な処刑方法である、と聞いて うっそー!!と思ったものだが、確かにギロチンというは処刑であって 拷問、ではないのよね。 拷問とはすぐに死んでしまっては目的が果たせない。 「棄教」とか魔女裁判みたいに、「自白」をさせたいわけだから。 例えば張り付けの拷問だと手足を釘で留め(ぞぞーっ)足も、足場にのせて る。 もしそうせずにぶらさげてしまうと、横隔膜が動かず数時間(?)で呼吸が できなくなって死んでしまうそうな。 だから足場に足をのせてると数日、下手すると何日も生きてすなわち苦痛を 長く与えられるそうな。 CS「世界の拷問」より…。 なるほど確かにギロチンは人道的だな、と再確認。 ひいい。 ちなみにイスラム国の斬首はより苦痛を与えるためにあまり切れないナイフ を使用した、との証言あり。 げろげろ…。 やだやだ… 人間じゃないね…。 でもドキュメント映画「アイヒマン裁判」によりますとナチスの高官アイヒ マンは「信じられないほど平凡で小者な人間であった」そうな。 ああ、やだやだ… できるだけ平和でありますように… くすん。
先日、仕事とは直接関係ないけど、とある出版社の編集さんと話す機会があった。 40代くらいの方、子供の頃私の漫画を楽しみに読んでくださったと。(…) 週刊誌だから毎週発売日が待ち遠しかった、でもお金がない時は何とかしてタダで発売号をゲットしたものだ、とか。 だいたい水曜日に電車にのると網棚とか座席に置いてあるんだよね。 それを探す… なかなか見つからない時は車両の端から端まで全部まわって探したりした… 何としても漫画の続きが読みたくて… などのエピソートを。 私も似たようものだった。 自分で買う事はめったになく、だいたい喫茶店とかバイト先で誰かが持ってきたり置いていってくれたそれを回し読みしたんだわ。 20才くらいの頃…。 バイトの大学生のお兄ちゃんとかが 「おう、ある?」「あるよ、おう」てな感じで休憩時間、サンデーとマガジン持って。 社会人のおじさんとかも必ず読んでいたなあ、水曜日のスタンダード。 「うる星やつら」が始まった頃か…。 私が美大を留年して、また行かなくなって結局除籍になった頃…苦笑。 バイトしてた新宿では当時はめずらしかった終夜営業のドラックストアや漫画の自販機があって。 そこでは火曜の夜に手に入ったんだ、さすが新宿… 「今みたいにネットもSNSもない時代、どこそこで前日に売っている、なんて情報が耳に入ったりしてね、口コミで。それを聞くや否や、もう手に入るまで夜中でもどこまでも走っていったわ。」 「あ、それすごくわかります、前日に手に入ろうものならもう狂喜乱舞♪」 ほとんどお預けできない猫状態。 あの情熱はどこへ…。 めでたく漫画家になれると、雑誌は編集部が送ってくれるので(時に前日♪) もう自分でお金出して発売日に買いに走ることはなくなった… うれしいようなさみしいような。苦笑。 なんておしゃべりをしていたら懐かしくなって。 当時楽しみにしてたのはやっぱり「マガジン」と「サンデー」。 なんと、青年漫画はまだ誕生していなかったんだよ。 ヤンジャンもヤンマガも。(!!) 「ジャンプ」はあんまり好きじゃなかったのであまり読まず…。 (まだキャプテン翼や北斗の拳が出現する前) 楽しみにしていたのはマガジンでは「翔んだカップル」とか「おれは鉄兵」、サンデーでは「男大空」「がんばれ元気」とか…。 でもだいたい全部の漫画楽しみにしてたんだよ。 特に好きだったのが六田登さんの「ダッシュ勝平」。 バスケットを扱ったスポーツ漫画なのだけれど、コメディタッチで明るくてかわいいキャラと絵柄が大好きだった。 まだ「スラムダンク」は出現していない頃… バスケット漫画自体めずらしかった。 私中学の時バスケット部にいたから親近感もあったし。 「お、バスケだバスケだ♪」喜んで…。 それに当時は「笑えるスポ根漫画」はあまりなかったんじゃないかな。 (「一、二の三四郎」はあったけど少しテイストが違う…男臭いというか) 勝平は、女の子も可愛かったんだよね。 たしか秋あかねちゃん、というヒロイン。 このあかねちゃんには「翔んだカップル」の圭ちゃんや「タッチ」の南ちゃんとかに「同性が感じるイヤな感じ」というもの(苦笑)がまったくなかった。 あれは不思議だ…なんなのかな。 多分六田登先生の個性、かと。 作風もあたたかみがあった。 情緒というか…。 割と少年漫画ではそういうの少なかったんだよ。 描ける人も少なかったのかな。 「泣ける」というよりは「ほんわかする」「ちょっと心があたたかくなる」感じ? その頃のスポ根漫画って勝負をとことん極めるというかストイックでどこか暗かったんだよね、「がんばれ元気」みたいに…。 勝平はほんとに明るくて可愛かったから、あ、少年誌で「可愛い」も有り?とその後も大いに参考にしたと思う。 その後の「F」はちょっと展開が暗くなってそんなに好きではなかった。 でも推測だけど本来六田先生はこっちの暗いテイストの方が好みだったのではないか? (だいたい漫画家は暗いのが好きだから) 少年漫画を描こうとか描けるかもなんてまったく思ってなかったんだけど。 ただただ、純粋に読んで楽しかった…。 時に爆笑し、時にじーんとし、いつもワクワクして。 私も、大人ぶって暗い漫画を好んでいた時期があったので、割と自然にこの漫画「ダッシュ勝平」に魅かれていったのが自分でも新鮮に驚いた。 へえ、私もこういう明るい漫画の良さがわかるんだ、なんか自分でもほっとしたような。 そのうち少年漫画の投稿を始め、でも何描いていいかよくわからず、かといって暗い漫画で勝負できるわけもなく…。 六田先生とは出版社も違うので面識はまったくなかった。 けれど関連するエピソードが一つだけある。 それは…。 90年代始め、私は「ヤングサンデー」で「勝利の朝」という集中連載ものを描かせていただいた。 ほぼ読み切り作品なのでネームは先に全部描いたのね、160枚くらいか…。 本来なら隔週誌の場合25枚くらいの長さが定番なのだけれどたまたまそのネームは40枚くらいの長さで仕上がってしまった。 すると編集サイドから「25枚で分けて掲載させてほしい」と要望があったのだけれど今から構成を変えるのはいやだったので 「それはできない、分けるんだったら載せてくれなくてかまわわない」と言っちゃった。 「じゃそのネーム、編集長に見せて納得してもらうから」と担当さんに頼まれたけど 「…」 ネームを他者に渡すことに抵抗があったのでそれも断ったの。 結局当時のK編集長さんが「そのままでOK」と特例を認めてくれた(感謝!)。 よい形で作品を完結させることができたの、特にこの作品は売れたわけでもないけど割と評価は高かったのよ、とりわけ同業の方から。 たまたまお会いできた高橋留美子さんから「おもしろかったよ〜」と声をかけていただいたのは本当にうれしかった…。 で、ここからは伝え聞きなのですが。 私の決まりより多くページをもらったことを耳にされた六田先生が 「若い者ががんばっている!ようし自分も描くぞ!!50枚よこせ!」と増刊号で読み切りを描く事になったらしい。 しかし、多分他にも連載抱えておられたと思う… 私の記憶によると六田先生結局〆切間に合わなくて落としちゃって…! (正確には半分くらいほぼ鉛筆描きで掲載されたはず) 六田先生ったら…。 担当編集さんから聞いた話なので実際はどうだったのかわかりません。 もしよろしければ六田先生教えて下さい。 作品落とされたのは私のせいですか?笑。 「ダッシュ勝平」大好きでした。 お金がなくて単行本は買えず、雑誌もどこかで誰かのをゲットしてたのですが… 毎週本当に楽しみにしていました。